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2023.06.15
総持寺の観音像は亀の背中に乗っています
お寺の歴史
中納言であった藤原山蔭が、長谷寺の観音の化身であると言われていた仏師に、観音像を作るよう依頼しました。
中納言とは今でいう閣僚のように国の中でも高い地位の役職のことです。
886年に亀の背中に乗った観音像が完成しました。そして、お堂を建ててお祀りをしました。
「山蔭」はお寺の完成前の888年に亡くなりました。890年に「山蔭」の子どもたちが五重塔や金堂など総持寺の伽藍(お寺の建物)を完成させました。
なぜ観音が亀の背に乗っているのか?
亀を助け、亀に助けられる
「山蔭」の父である藤原高房が九州の太宰府に赴任するため淀川を下っていた時のことです。
漁師たちが一匹の大きな亀を捕まえていたようです。そこで、「高房」は自分の着物と亀を交換して、大亀を助け、川に放してやりました。
その夜、「高房」の子供である「山蔭」が、川に落ちてしまいました。
「高房」は常日頃から信仰していた観音に、一生懸命お願いをしました。
すると、川の中からその日に助けた大亀があらわれ、元気な「山蔭」を背に乗せていたとのことです。
観音の製作
「高房」は「山蔭」が大亀に助けられたこともあり、観音にお礼をしようと思い立ちました。
「高房」は大宰府に赴任したときに唐へ行く予定の遣唐使に、観音像の材料となる香木の調達を依頼します。
遣唐使は香木を見つけることはできましたが、唐からの持ち出しは認められませんでした。
遣唐使は仕方なく香木に「日本の高房宛」と書いて、海に流しました。
その後、「高房」は亡くなり、「山蔭」が大宰府に赴任しました。
ある日、浜辺に「高房宛」と書かれた香木が流れ着いていました。「山蔭」はその香木で観音像を作ることに決めました。
任期を終えて、都に戻った「山蔭」は、奈良の長谷寺から一歩も外に出ずに仏師を探すことにしました。
ある朝、観音のお告げにより子どもの姿をした仏師に巡り合います。その香木で観音像を作ることを依頼します。
仏師は「仏像を彫刻する千日間は、誰もこの堂に入らないこと。また、「山蔭」自身が毎日仏師の食事を作ること」と言いました。
山蔭は千日間毎日ちがう料理を作り続けました。千日目の朝にお堂に入ってみると、千日間の食事をお供えされた観音像が、亀の背に乗った姿で、出来上がっていたとのことです。
総持寺は日本古来の伝統のある「山蔭流包丁式」のお寺
包丁式と藤原山蔭
包丁式とは、昔宴席でその家の主が来客の前で座敷にまな板を置き、料理を見せたことに由来しています。
「山蔭」は「山蔭の千日料理」とも言われ、千日間毎日ちがう料理を作ることができた料理の名人でした。
「山蔭」は元々天皇に仕える公卿でした。当時の天皇であった光孝天皇の命令で新しい包丁式を作りました。
現在は、「四条流」と呼ばれる流派です。当時は、「山蔭」が始めたことから「山蔭流包丁式」と名付けられました。
包丁殿と包丁式
総持寺の中に包丁殿という建物があります。そこで、毎年4月18日に包丁式が行われます。
包丁式には全国の包丁師(調理師)が集まります。
(写真は千葉県の高家神社の包丁式の様子です)
昔と同じ衣装を着て、鯉や鯛などの魚を一切手で触らずに包丁と真魚箸という長い箸を使って、見事な包丁さばきを見せます。
お寺の中で魚を料理してくれるのは珍しいですが、「山蔭流」を始めたのが総持寺の開祖の「山蔭」だったからでしょう。
また、境内には「包丁塚」という建物があります。使えなくなった包丁を供養する場所です。
西国御砂踏み
本尊の観音像は秘仏とされています。
普段は見ることができません。
毎年4月15日から21日の間だけ「本尊様ご開扉」として扉が開けられます。
その期間に合わせて「西国御砂踏み」が開かれます。西国三十三所の観音像の絵が壁にかけられます。
観音像の前には、それぞれの札所の砂がおかれています。この砂の上を歩いて回れば三十三所巡礼になるということです。
また、「御砂踏み」とは別に、本堂の北側の堂に三十三所の石造りの観音像がおかれ、いつでも三十三所巡礼が体験できます。
また、このお堂には「四国八十八箇所」もあります。
総持寺の中だけで一度に「西国」と「四国」の巡礼が体験できます。
ただし、足元に各札所の御砂は置かれていません。
体験する場所だと考える方がいいかもしれません。
総持寺への行き方
京都から
・JR 京都線京都駅~JR総持寺駅23分徒歩5分
・阪急京都線京都河原町駅~総持寺駅27分徒歩6分
大阪から
・JR京都線大阪駅~JR総持寺駅20分徒歩5分
・阪急京都線大阪梅田駅~総持寺駅20分徒歩6分