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【ぶんか】日本の着物とくに絹織物について

2023.06.15

着物に使われる

16世紀ごろまで日本人の着物に使われる織物は、「麻」か「絹」で、
ふつうの人たちが「麻」を使い、えらい人たちは「絹」を使いました。

江戸時代(17世紀)になると、綿が多くそだてられ、木綿の着物が急速に普及しました。

1628年に幕府は、「百姓着物之事」という法律を指定しました。
この法律では、百姓がきる着物を決めていました。
百姓の着物は麻か木綿だと決めました。

ですが、村の政治や安全にかかわった「名主」のつまは、「紬」の着物をきることができました。
「つむぎ」は絹で出来た織物です。

しかし、まゆのくずから作った糸で作られていましたので、すこし安い絹の織物でした。

「麻」は育てることやせんいにすることがむずかしかったので、
ふつうの人々の織物として人気がなくなり、わたの着物がふつうでした。

次に、着物を作る織物として、いちばん多く使われていた「絹」について説明します。

「絹」の織物

「生糸(生糸)」と「紬糸(つむぎ糸)」

絹織物に使う絹糸は大きく分けて、

  • 滑らかなタッチの「生糸」
  • 少しザラザラする「つむぎ糸」

に分かれます。

蚕はさなぎになるときに、1000mより長い一本の糸を出してまゆを作ります。

「生糸」はきずがないまゆから直接とった長い糸を取ったもので、つるつるとしています。

「つむぎ糸」はきずがあるまゆを湯につけてひらき、かわかして作った「まわた」をほぐして糸にしたものです。

つむぎ糸は、少しザラザラします。

生糸を使った「西陣織」

西陣織の歴史

5世紀のころに中国から来た秦氏が山城国(京都府)に住み、
かいこの育て方と絹織物の作り方を伝えました。

この地域は今「太秦」と呼ばれています。
「東映太秦映画村」が有名です。

もともと秦氏がいた場所で、絹を「うずたかくつんだ」ことから「うずまさ」と呼ばれました。

今の西陣地区への集中

8世紀のおわり、平安京に首都を移動したあとの朝廷は、
「織部司」という役所を作りました。
「織部司」では、国の仕事として、綾や錦のような高い絹織物を作らせました。

1467年~1477年に、京都で「応仁の乱」というの戦争が起きました。
西の軍がキャンプをおいた場所なので、「西陣」と呼ばれました。
そして、その地域で作られる織物を「西陣織」と呼ぶようになりました。

西陣織の特徴

先に染めた生糸を使って、色やもようを出したいちばん高い絹織物です。

11代将軍の徳川家斉は西陣織が好きで、よく着て(おめしになって)いました。
ですから、この織物のことを「お召し」と呼びました。

伝統的工芸品になった「西陣織」

  • 生糸から作られた11のタイプの絹織物
  • つむぎ糸を使った1つのタイプの「つむぎ」

の12のタイプが伝統工芸品になっています。

「生糸」を使った伝統工芸品の絹織物には、「西陣織」のほかにも、福岡県の「博多織」があります。

「つむぎ糸」を使った「結城紬」や「大島紬」

紬の変化

「結城紬」や「大島紬」は、高級品のイメージが定着してきました。
もともとは「紬」がくず繭から作った「紬糸」で織られ、日常の衣料や農作業用の服(野良着)に使われていました。

江戸時代なかごろから、「絹」は高い着物として規制されるようになりました。
そして普通の人々は、「絹」を着ることができなくなりました。

「つむぎ」の着物は絹ほどきれいではなく、ごつごしていました。
ですから「木綿」のかわりに着ていました。

時間がたつと、「つむぎ」の良さが知られるようになりました。そして「結城紬(結城紬)」や「大島紬(大島紬)」が人気になりました。

伝統工芸品としての「結城紬」と「大島紬」

「結城紬」は、茨城県と栃木県を流れる鬼怒川の近くで作られています。
むかしから絹織物が作られていた場所です。

「鬼怒川」という漢字は、明治時代になって使われるようになりました。
しかし、その前は「絹川」と言われたこともあったようです。

「大島紬」は薩摩国(今の鹿児島県)の奄美大島で作られています。
大島紬は、「本場大島紬」という名前で伝統工芸品になっています。

絹織物のまとめ

絹織物は、もともとは生糸を使ったおかねもちのための織物でした。
しかし、使いやすいつむぎ糸でつむぎが作られるようになりました。

そして「結城紬」や「大島紬」のような、高い織物も生み出されたようです。


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